「決断の瞬間 --地方自治とリーダーシップ--」講演記録
平成20年11月3日(月) 午後1時30分 早稲田大学祭シンポジウム 基調講演
「決断の瞬間?地方自治とリーダーシップ?」講演記録 平成20年11月3日(月) 午後1時30分 早稲田大学祭シンポジウム 基調講演私と早稲田のかかわり】
皆さん、こんにちは。銚子市長の岡野でございます。
銚子市は苦渋の選択として病院を休止いたしました。本日はその真相についてお話をさせていただきたいと思います。
その前に、私と早稲田の関わりについて少しお話させていただきます。
実は今日、ここに来る前、銚子出身の早稲田の大先輩「青木半治先生」にお会いしてきました。青木先生はかつて日本体育協会会長であり、日本陸上競技連盟の会長でありました。東京オリンピックを誘致し、成功に導いた方であります。また、東京都の名誉都民であられます。
青木先生に今日母校でお話しすることになりましたとお伝えしたら、先生は私にこうおっしゃいました。
「今の日本はおかしい。本当のことを見えなくなっている。見ようともしなくなっている。上っ面のことで動きすぎる。今日の日本を築いてきたのは大和魂であり、武士道精神である」。と盛んにお話ししていました。「どうか、君の想いと真実を話して来て欲しい。」と激励されました。
青木半治先生といえば、今の若い方は知らない方も多いと思いますが、私がかつてギリシャの大臣とお話する機会があった時、日本の首相の名前は知らなくても、日本陸上競技連盟の「ミスターアオキ」の名前は知っていました。それほど、世界でも知名度の高い方です。
それから、12歳違いの私の叔父が早稲田の法学部出身です。この叔父にかわいがられたものですから、私と風呂に入った時は、早稲田の校歌を聞かされ、私も歌えるまでに覚えてしまいました。この尊敬する叔父は、優秀な方でしたが、若くして亡くなってしまいました。
私は、わんぱくでスポーツが得意だったものですから、オリンピック選手をめざし、日体大に進んだのですが、叔父から「私にスポーツばかりでは駄目だ。本を読め。」と諭されました。この教えを守り、大学時代は、「本を読む日体大生」という変わり者であったのです。
江戸時代から発展してきた銚子市
さて、ここで少し銚子の紹介をさせていただきます。銚子は、かつては華やかで賑わいのある都市でした。江戸後期から明治中頃にかけては、東京、横浜、銚子の関東三大都市、または、東京、横浜、宇都宮、前橋、銚子の関東五大都市と称されるほどの賑わいのある町でした。その頃は、水運で魚やしょうゆ、物資を運び、江戸庶民の台所としての役割を果たしていました。今でも築地には銚子出身の方が住んでおられます。このような銚子が何故、病院の休止に至らなければならなかったのか?ある意味では恵まれすぎて努力を怠ってきたのはないかと思うわけです。銚子の食料自給率は258%、日本は今40%です。千葉県は29%です。
300種類の魚が採れ、2年連続日本一の水揚げ量を誇ります。そして夏涼しく冬暖かい気候であること。また農業も盛んです。灯台印のキャベツは有名ですが、米、野菜、畜産、近隣の市町と合わせると、関東でも有数の農業産出額を誇ります。それに合わせて、伝統のしょうゆ醸造、ヤマサ、ヒゲタ醤油という日本の醤油メーカーを代表する企業が立地しています。このように余りにも恵まれすぎていたことに胡坐をかいていたのではないかと思う訳です。
病院の存続を訴え続け奔走
さて、病院の話に入りたいと思います。
私が市長選に立候補した際に掲げた公約が、「公立病院としての存続」でした。前市長の時代から病院の問題は顕在化していました。彼は総務省の出身ですから、病院の方向は民営化に向け考えていました。私は教員出身ですから、貧しい子供たちの家庭も知っていましたので、何とか公営で維持できないものか、腐心してまいりました。就任後から、医師の確保に奔走してきました。
ここ数年の国による規制緩和の方向から出された「新医師臨床研修制度」の影響による医師不足や、「診療報酬の改定」などにより極端に医業収益が減少し、経営状況の悪化に苦しんでいたからです。
しかし、国の医療制度改革には勝てませんでした。世間では、私のことを「病院を潰した市長」と言っていますが、私は休止を発表する直前まで存続のために努力してきたのです。
市立病院を再生するために必要なこと
「医師がいて」、「市にお金があって」、「病院経営が改善できていれば」、病院がなくなることはありません。
ところが、「医師がいなくなった」、「市には支援すべきお金がない」、「病院は公立病院特有の公務員体質で経営改善が思うようにできない」、このような状態で市が支え続けていては、市の経営すら危険が及ぶと判断し、苦渋の決断をしたのです。
一部の市民からは、「市はつぶれてもいいから病院を支援しろ。」と言われてきました。デモも行われました。市長を引きずり降ろそうという政争の具にされてしまったのです。これが一番悪いことです。
私が、医師がおり市にお金があるにもかかわらず病院をなくす方向で考えていたら、公約違反と言われても仕方がないことですが、今の状況は、「公約の中断」であると私は考えています。
日蓮は蒙古襲来の危機があった鎌倉時代、幕府要人、他宗の僧侶に対し、「世を救おうと思う者はあらゆる迫害に耐えよ」と説きました。また、「地域や家族も大切だが、もっとも大切なのは国家である。国を護る。これは最高の道徳律である。」と教えました。
私も今、このような意識が必要であり、間違った集団には負けてはならない。銚子の意識革命の時期だと思って耐えています。
都市経営者として休止を決断するまで
市立病院は、市民の「命と健康を守る」地域医療の中核病院ということで私の公約に掲げました。公立病院は、救急医療、精神神経科等のいわゆる「不採算部門」を担わなければなりません。また、開業医の経営を圧迫しないための手かせ、足かせがあります。 このような厳しい状況の中でスタートしてから実質上の黒字になったことは一度もありません。総合病院となった約24年前の1984年から現在まで、総額約230億円の支援を行ってきたことも事実であります。
私が市長に就任した2年前の平成18年度には、就任約3か月後には、9億円の支援のほかに、7億円の追加支援を行うという非常事態となりました。
この支援は、市の会計では用意ができず、「水道事業会計」から貸付を行うという形で支援しました。
このお金は水道事業という特別のお金であったために、「背任行為にあたる」という指摘も受けましたが、議会を説得し協力を得て、1度目の危機を逃れることができました。
昨年度は9億円の補助金のほかに、6億円の追加支援をしました。これは市の貯金にあたる財政調整基金から絞り出し、2度目の危機を凌ぎました。
この時、病院の経営陣に対し、このままでは市民に申し開きができないということで、「経営健全化計画」を提出してもらいました。
この計画は、甘い見通しの計画で、市の執行部と病院事務局との厳しいやり取りの末に、もうこれ以上支援はできないという基本方針のもと、作られた計画でした。
今年の3月には病院長は過労で辞職しました。懸命に病院長の引止めをしましたが翻意していただくことは叶いませんでした。その後は、院長の後任をお世話になっている病院、近隣の病院を中心に方々あたり、懸命に走り回り探しましたが、見つかりませんでした。
このような期間が4か月続き、私も市のひっ迫した財政状況の中で、何とか病院を存続できないか、改革できないかと腐心し議論を重ね、千葉県とも相談しましたが、これ以上、病院を存続するための市からの財政支援は物理的にも不可能ということで、9月に休止という非常に辛い決断をいたしました。
この休止にあたっては、さまざまなシミュレーションをしてきました。ソフトランディングするための方法、ダウンサイジングして経営規模を縮小する方法を考えてみました。しかし、約400床という大きな器のある病院を急に縮小するといっても並大抵にできることではありませんでした。ともかく、常勤医師が通常の3分の1に減ってしまっているのです。
これは国の医療制度によるものですから、とても私には太刀打ちできませんでした。この原因はまさしく「新医師臨床研修制度」の創設であり、医師研修の規制緩和策の中で地方には研修医が集まりにくくなりました。
この状況は、平成16年4月に35人にいた常勤医師が、平成19年に22人、平成20年4月には13人と急速に減少していったのです。そして、休止する直前に残ってくれる医師を確認したところ数名しかおりませんでした。
看護師の数はそのままで、入院もできない、救急も対応できない、このような機能の病院を維持できるでしょうか?この状態は、レストランにコックがいない状態で経営をまかなっているようなものです。これは経営としては成り立ちません。
また、公務員体質も顕在化していました。近隣にも、公設公営の病院や県立の病院がありますが、いずれも経営体質は悪い。何故か?労働組合は、いわゆる整理退職を認めません。公立病院の労働組合というのは、つぶれるということは何も考えていないのです。一般の会社であれば、労働組合は会社をつぶすような交渉はしません。役所は絶対につぶれないと思っていますから、我々の出した案に応じることはありません。
また一方で、職員を退職させるということは本当に辛いことです。職員の中には、私のかつての教え子、そのご両親、親戚、知人の方などたくさん勤めておられます。
家族を養い、教育費や住宅ローンなども抱えている人などたくさんおります。 私は、職員の将来の生活設計に重大な影響を与えざるを得ないと考える時、そして、入院されている患者の方々を思うとき申し訳なさがいっぱいで夜中に何度も目が覚めました。人知れず涙がこぼれてきた時もあります。それでも、私は行政のトップですから耐えなければならない。
他の公立病院の経営者は私を責めます。しかし、民間の医療法人の経営者は、良く決断されたと評価してくれました。自分たちは苦労して乗り切ってきている。公立病院は甘いと。また、全国の市長からは「次の選挙は駄目だね。住民から反対されるから。」と言われました。「私は結構です。」と申し上げました。トップとして必要なことは、まちを救うことです。銚子という小さいまちですが、将来のことを考え、この苦渋の選択をせざるを得ない。このような決断をしたのです。
マスコミによる一方的批判
このような状況の中、マスコミからは連日多くの取材を受け、それが結果的に多くの批判となって押し寄せてきました。
あるマスコミですが、「2年しか勤めない市長が、30年以上勤めている職員の首を切っていいのか」と責めてきました。戦後の日本はこのような論理が通じるのです。世界ではこのような論理が通じるところはありません。しかし、戦後の甘えの構造で、間違った民主主義がこのような論理を通じさせるのです。
1日の市長だろうが、何十年務めている市長だろうが、その行政に対する責任の重さは同じです。これが日蓮上人の言葉の意味であると思います。
やはり、正しい判断と思った時は、どんなつらい立場でも実行する。この決断力が必要だと思うのです。
マスコミは、自分が聞き出したい内容を何十回も尋ねてきます。そして、一度でも間違えたりすれば、その言葉を取り出して使ってしまうのです。また、こんなエピソードもありました。できる限り温和に対応しようとしていたところ、「そんな顔では駄目です。もっと深刻な顔にした方がよい。」といわれたので、本当に申し訳ないと思い、そのような顔にしたところ、その時の恐い顔が全国に流れ、私のイメージが作られてしまいました。しかし、そのようなマスコミでしたが、2社ほど後日非礼を謝罪してきたところがありました。
そして、マスコミで言葉が躍った「医療難民」は、今のところ、銚子の場合は出ておりません。市内の病院も懸命に頑張ってくれておりますし、旭中央病院、鹿島労災病院など市外の病院にも救急患者を受け入れていただき、感謝しております。銚子には医療体制を支える受け皿もあったのです。
これらのことを考える時、物事は一端の見方だけでとらえてはいけない。市長は都市経営者として総合的に判断せざるを得ません。病院の方々は病院の経営だけを考えて当然ですが、私はそのような訳にはいきません。皆さん、これ程話題になった銚子市立総合病院が市民の何%利用されていると思いますか?国保のデータですが、休止前は市民全体の7.5%の利用率にとどまっています。そのような中で、私たちは2年間の累積で約30億円もの赤字補填をしてきたのです。
さて現在、私は病院をつぶした悪い市長ということでリコール運動がおきています。完全に患者抜きの政争になっております。銚子はかつて、重要港湾の指定まで進んでいた話を住民の反対運動で白紙撤回となりました。東京電力の誘致も然りです。もし、実現していれば港湾、道路交通をはじめ都市基盤のインフラ整備も進み、街も発展していたのでしょうが、後悔しても後の祭りです。今回の問題も同じように取り上げられ、そのような市民性が残念でなりません。
私は銚子市が将来進むべき方向として、関東で最も地震に強いまちとしてPRしていきたいと思っています。現に関東大震災の際、銚子は東京を救っています。大震災に見舞われれば、トイレ、帰宅困難者の問題、道路や東京湾など交通インフラもすべて駄目になります。その際、東京近郊の防災拠点に頼っていて大丈夫でしょうか。銚子には食料備蓄機能があります。また、冬暖かく、夏涼しい温暖な気候、醤油醸造業もある、固い岩盤で地震に強い、このような地域の特性を生かして、「首都圏を救うまち」として活用して欲しいと訴えているところです。それでも市民の協力がなければ、なし得ないものであると思っています。
日本人として身につけるべきもの
話題は変わりますが、最近の日本人のモラルや道徳がおかしくなっているといわれています。
幕末から明治維新にかけて、大政奉還、廃藩置県など、非常に大きな変革期に際し、ほとんど無血革命に近い形で新政権に移行できたのは、国の将来を思う気持ちが共通だったからです。新政権ができてからも、幕府側の官吏を新政府の重鎮や東京大学の前身である総長に登用しています。明治維新の際に戦ったが、国を思う気持ちは同じであるという日本人のもつ武士道精神や寺小屋教育などが根底にあるのです。
ここから何を学ぶべきかということですが、私は道徳教育を復活し、教育勅語を再評価することだと考えています。教育勅語を皆さん読まれたことがありますか?
親を敬う、先輩を敬う、いざとなったら国のために戦う、当たり前のことです。決して間違ったことが書かれている訳ではありません。戦後教育ではそれを排除してしまいました。
私はスペイン国バルセロナで日本人学校の校長として3年間赴任していましたが、その当時、同時多発テロを経験しています。世界で自分の国に対する誇りや近代史を教えていないのは文明国で日本だけです。セレモニーの時に、国旗や国歌にきちんと対応しないのは日本人だけです。帰属意識のない人間が外国に渡り、暮らしていけるでしょうか?日本の伝統文化をしっかり身につけていないと、外国の人々からは尊敬されません。このようなアイデンティティーをもたない人間をつくってしまったのも、戦後教育の失敗にあると思っています。
私は非行で荒れていた学校の建て直しを4回行いました。国のすばらしさ、故郷への慈しみなどを説いていると悪かった子どもたちも目が輝いてきた経験があります。敗戦後の日本の子どもたちは栄養失調でしたが目は輝いていました。しかし、今の日本の子ども達は、豊かになったけれども目が死んでいる。私はもう一度日本の伝統文化を見直す必要があるのではないかと考えています。それと、人権、自由、平等をもう一度考えて見るべきだと思います。
私が教育に一番大切だと思うのは人づくりであり、人づくりというのは自己実現をするとともに、社会に貢献するということを教えることだと思います。
日本人は感謝の民族です。日本人は無宗教といわれていますが、大自然の中に感謝するという観念を、自然と身につけています。太陽を拝み、森や海に感謝し、祈る。また、日本人は相手を尊敬しながら、受け止めながら共生していく助け合いの精神を大切にしています。これらの先人の知恵、気概、使命感を大切にするような教育、いい意味での大自然への畏敬の念や感謝して宗教観を身につけていかなければならないではないでしょうか。









