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教育者としての私の理念 銚子市立総合病院問題の見解

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日本創新党

教育を斬る

 国を愛する心 

-- 自国への愛と教育

教育は人格の形成を目的としている。日本人としての自覚を持って、国を愛し、国家の発展に努め、すぐれた伝統の継承と文化の創造に貢献できる人間の育成が重要であると考えております。

「自国への愛」というものは誰でも持っています。最初に「家族愛」、そして「隣人への愛」、「地域への愛」があり、それが「自国への愛」に発展していくものと思います。「国を愛する心」は強制であってはいけません。「国を愛する心」を育てるということは、「家族愛」から「自国への愛」に発展していく過程を、子どもにしみ通らせる、浸透させる、私はそういう意味だと思っています。

そのためには、わたしたち銚子市の歴史、文化、先人の豊かな感性、創造力等について理解を深め、さらに我が国の文化や伝統を学び、日本人としての自覚を高めることが大切であると考えます。日本人と「自国への愛」について、外国での生活を通してわかったことは、人間としての生き方を確立していない人はもちろん、「自国への愛」を持っていない人、言い換えれば、顔の見えない日本人は相手に信用されないということです。また宗教や哲学、道徳心をもっていない人、人としての生き方を示せない人の国とは貿易をしたくないということを言われたこともありました。これらはその後の外国生活をおくるうえで大変役立ちました。

「国を愛する心」を育てるということは、極めて大切なことで、感謝の気持ちをもつことを教え育むことが大切だと思います。例えば、社会主義の国の中には、徹底して国を愛する教育をし、最高指導者への忠誠心を際立たせている国があります。スポーツやイベントなどの報道を見ると、旧ソ連圏のスパルタキアーダを見習った方法がとられ、世界でも稀(まれ)といえるほど見事な統制がなされていますが、その統制の裏には国の強制指導があり、このような体制に見切りをつけて脱走する者も出てくるような状況になっています。強制は定着しません。しっかりした教育や訓練は必要ですが、理不尽な強制は必要ないし、出来ないと私は考えています。

--プロトコル(外交儀礼)

最近、テレビでアジア大会の様子やサッカーの国際試合が、放送されています。そこで外国の選手がどのような態度をとっているかご存知でしょうか。自国の国歌が演奏されたときに、胸に手をあてない代表選手が1人でもいるでしょうか。皆無に近いと思います。その精神が異常でない限り、すべての選手は国歌が演奏されたときに胸に手をあてています。お隣の韓国も中国も同様です。ところが日本の代表選手は、外国から日本に帰化した選手が日本国歌を歌っているにもかかわらず、なかには、ガムを噛んでいたり、体を揺れ動かしているなど、不規律な態度の人がいます。

この状況がテレビで放映されると、子どもたちは、自分のあこがれている選手の行動をよく見ていますから、これでよいものだと思い込み、そのまま育ってしまうのは、たいへん困ったことです。日本の選手の中には、余りにも自由に育てられたために、あるいは勝手に育ったためか、愛国心をそれほど持っていない人がおり、私は残念に思います。

先ごろ米国ウィスコンシン州から銚子市に訪れた方々とお会いしました。ウィスコンシン州の方々が会食しているときに、銚子市のある方が和笛で米国の国歌を演奏しました。すると、米国国歌のメロディーが流れたと同時に食事をしていたウィスコンシン州の方々が一斉に立ち上がりました。外国ではあらゆる場において、その国の国歌が流れたらその場にいる人全員、例えば取材中の記者であっても全員立ち上がります。

ある国際的な会議場で国歌が流れたときに、立ち上がらなかったのは日本人の記者だけということがありました。これは外交儀礼に反しています。がしかしこれはけっして記者の方がその国を侮蔑していたのではなく、世界の中では常識といえるようなことが常識として教えられてこなかったために、そのような行動をとってしまったのでしょう。

現代は国際化社会ですから、国際儀礼を当然のものとして子どもに自然に受け入れさせることが、教育上、重要であると思います。強制ではなく、国際的な儀礼として知らせなければなりません。

私は体操選手であり、体操指導者でもありました。その頃は度々海外遠征に行き、日の丸を揚げたこともありました。もちろん表彰式では日本国歌が流れます。そのとき、各国の人は一斉に立ち上がります。これがプロトコルです。儀礼です。そういうときに、また、世界のあらゆる場で礼を失しないためにも、最低限のことは教える必要があるのではないかと考えています。

--国旗・国歌に対する気持ち

国際化が進む中で、国家について諸外国と対峙して考える場合、私がよく例を挙げるのは、国旗・国歌に対する気持ちです。一般的には、自国の国旗・国歌に畏敬の念をあらわせない人は、他国を尊敬できないことにつながると考えられています。

某新聞社の記者が、イギリスに滞在していたときのことを、本に書いております。

その中に出てくるエピソードで非常に不謹慎な話ですが、ストリップ劇場でショーが終わり閉幕になったときのことです。英国では必ずショーの最後には国歌が流れることになっています。そのときに何の手違いか、幕が落下してしまいました。しかし、舞台のダンサーはそれに驚くような様子も見せず、裸のまま直立不動の姿勢で国歌を歌っていたそうです。

日本は稀に見る平和な国なので、国旗・国歌について色々なことが論じられていますが、英国人の国旗・国歌に対する気持ちというのは、日本人と比べものにならないほど強いものがあるということです。

個人があって国があるという考えの人もいますが、国があって個人があるという見方が国際的な考え方です。個はもちろん尊重されなければなりませんが、国が非常事態に陥れば、個人の財産も生命も危うくなるということです。民主主義国家日本の根幹をなす「主権在民」は、国の安定という基盤があって初めて成立するものです。

戦後の教育において「自由平等」「個性尊重」などがあまりにも偏重されたため、その趣旨が生かされず今の日本には自己中心主義や利己主義が蔓延しております。国が正常な状態で、はじめて個人の生命や財産は保障されるのですから、「個」より「公」が優先されることを認識する必要があり、そのような面で日本の戦後教育は過ちを犯してきたのではないかと思います。

--平和について

平和の感じ方も重要な問題の一つです。戦争は絶対してはいけないし、また他から攻撃されても困ります。戦争と平和というものは、どのようなバランスによって保たれるかということを考えたとき、日本人は余りにも平和に対して無関心過ぎます。「水と安全はただ(・・)」だと思っている、そういう国に育つと大概(たいがい)の人は勝手なことを言うようになります。諸外国の実情を見ると、やはり自分の国がどんな状況にあっても、まず、攻められてはいけないという感覚を持つようです。

そして、あらゆる手段を構じて平和を保とうと努めています。諸外国を信頼し、協調関係を保つことは大切なことです。日本国憲法にも「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」という言葉はありますが、無防備でよいという考え方は、どこにも見当たりませんし、世界中に一国もありません。国の非常事態のとき、国民は全力を尽くして戦うという考え方は世界共通の理念です。

これを戦争賛成論と結びつけることは絶対あってはいけないことです。もちろん、現実的には抑止力をもったうえで、外交により国益と安全を考えることが第一であることは当然のことだと思います。

戦争は絶対してはいけないし、あってはならないものです。しかし、日本民族の平和的存続と、継続、発展の為には、国の主権である国民および領土を守らなければならないし、他国から攻撃されないようにするための抑止力が必要だと思います。国家は国益の追求、擁護のために意思決定をし、国策を遂行しなければなりません。

このようなことから日本の考えを諸外国に理解してもらうために、外交はきわめて重要ものとなっております。また国民一人ひとりの国防非戦の意識は、家族、隣人、郷土、国を愛する心を教育することで培われると思います。具体的には、「寛容の精神」を教育することです。個人的な見解ですが、「寛容」という言葉を教えているのは、日本が一番多いと思います。そして、「寛容の精神」とともに日本のかつてのよさ、すなわち、江戸時代、それ以前から持っている自然に対する畏敬の念や、むやみに争いごとを起こさない感謝の心というものをもう一度取り戻し、教えていかなければならないと思っています。

家庭教育について

 

--教育の出発点

私は、基本的生活習慣や倫理観、自制心、自立心など、「生きる力」の基本的な資質や能力を育成する、これが家庭教育だと思っています。家庭は、すべての教育の出発点です。子どもの教育は、親に責任があり、夫婦それぞれがお互いを尊重し、協力しなければ成り立ちませんが、教育評論家などが、どんなに立派なことをいっても、子供は親から独立しては育つことはできませんし、またそれにかわる人がいなければ自立することもできません。

--家庭の教育力低下

しかしながら、核家族化や少子化が進む中で、家庭における教育力の低下が問題になっています。「親殺し」、「子殺し」が起こり始めた頃、教育評論家、全国の児童相談所の指導員は、「子どもの言いなりになりなさい。」と指導したことがありました。「受容」という言葉が蔓延し、子供が暴力をふるった時には親が家を出て行くことをカウンセラーや教育関係者が促したことがありました。

このような子供を取り巻く環境の劣悪化を象徴するものとして、子どもが、強い父を求めて泣きながら殺したという例があります。子どもは強い父、愛情いっぱいの父を求めているのです。困ったことに、発達段階にあった役割を与えず、子どものいいなりになってしまう大人には大きな問題があります。また、子どもがラジカセを欲しいといったら、自殺されたら仕方がないからといって我慢させず、すぐに買い与えるようなことをしていた親もいました。今は携帯電話になっていますが・・・。

そういう甘やかしが、我慢することのできない子どもにしてしまっているのです。やはり、「ならぬものはならぬ」ということをしっかり教える、我慢をさせる、そういう教育が必要であることを認識しなければならないということではないでしょうか。

--自由と教育

我が家でも子どもの「躾」では大変苦労しました。息子が高校生のとき、突然、髪を染めてきたことがありました。

そのとき、道で私とばったり出くわしました。一瞬、向こうからか赤毛ザルの様な高校生が歩いてきたと思ったら我が息子でした。子どもは一瞬で周りに流されるところがあります。親にお金をもらっていながら自立もしていないのに、してはいけないことがわからないのかと、後で散々叱りました。(いま青少年をとりまく大人社会の)自分の周りや祖先からもらった遺伝子の特徴もわからないうちに、子どもが自由に髪を染めたり、爪を染めたりする。

あるいは母親の染髪剤が余ったからといって頭を染めたりすることを自由にさせると、勝手な子どもに育つわけです。日本では自由と勝手は全く違うということを、気がついていない人が多過ぎます。しかも、戦前・戦中の苦労を子どもにさせまいとして、甘やかすという誤った教育をしてしまっている方が意外と多いのです。社会の役に立つ人間の育成よりも経済的成功を求めてしまった結果といえます。

自由の裏には、必ず公共の福祉というきちんとした規律というものがありますし、他人を尊重するとか思いやるとか配慮する部分があるのですが、そういうものが最近随分欠けているように思えます。家庭教育も学校教育も、余りにも周りの目を恐れて温室で育てるような教育をしてしまったのではないでしょうか。社会全体で子どもを温室の中で育ててしまったのです。

だから冷たい風に当たれば萎(しお)れ、強い太陽に当たれば萎れる。家庭、学校という温室できれいに見えたものが、実は非常にひ弱だったというのが日本の現状ではないでしょうか。「十五で姐やは嫁に行き」という歌がありますが、実際、その当時の人は自立していたのですね。ところが、今は20歳でも自立しない、30歳になっても自立しない。

年齢にふさわしい「わきまえ」を失い、60や80になった人が『●●様』だといって追っかけ回し、キャーキャー騒いでいる。いくつになっても異性に対して憧れや尊敬の念を抱いてもよいとは思いますが、ここまでくるとみっともないというか、品性のない国民になってしまったと思います。また最近の日本語のブームの中では、敬語の乱れが指摘されていますし、日本語のそのものも乱れてきているように思います。さらには巷(ちまた)に溢(あふ)れるさまざまな情報に、国民は振り回され、ものの本質と、その価値を見分ける能力を失っています。これは明らかに戦後教育の大失敗であると私は考えています。

--社会の変化と家庭教育

家庭教育を充実させるにはどのようにすればよいのでしょうか。昔は隣近所に怖(こわ)い親父さんがいて、うるさいおばさんもいました。近所の大人たちは人として駄目なことをすると叱ってくれました。また、叱られたら、その子どもは逃げましたが、それに気づいた親は、注意してくれた方へのお礼の言葉を忘れなかったものです。

ところが、今は、叱ってくれたありがたい方の家に親が抗議に行くということが非常に増えてきました。また、昔はガキ大将がいました。ガキ大将は正義感を持って自分の友達が理不尽にいじめられれば仕返しすることもありました。集団(仲間)を守るとか、集団の中でのルールのようなもの、通過儀礼的なものがあって、これらによって社会への適応方法を自然に覚えていきました。ガキ大将は「おまえ、下っ端だから買い物に行ってこい。」などと命令もします。今だとぱ(・)しり(・・)だとか言われているようですが、当時もそれは当たり前とされていました。

ガキ大将は、命令もしますが、優しさもありました。例えば木登りするときなど、枯れ枝を登りながら折っておき、後で登ってくる仲間が誤って落ちないようにするなどの思いやりもありました。このようなところで社会の矛盾とか、長幼の序の体得ができたのです。

しかし、今の子どもたちはこのような経験を積むことはできません。温室育ちですから、「いじめ」に対しても非常に弱く自殺してしまうような子どもも多く出ていると思います。現在は、子どもを鍛えることを忘れ、問題を取り除くことばかり考えています。心身ともに打たれ強い子どもを育てること、悪と戦う正義感を身につけることが大切です。子は親の背中を見て育つわけですから、最も身近な先生である親の生き方や世間の人の生き方が、大変重要ではないかと思っています。

家庭教育では「躾」が大事です。学習の「習」は、羽に白と書きますが、鳥が何度も羽ばたきを繰り返すことを意味しています。親鳥の羽ばたくのを見てひな鳥が飛び方を覚えるのです。親が正しい飛び方をしないと子どもは木から落ちてしまい、もう二度と上がれなくなります。家庭教育というのはそれと同じで、基本的な「躾」に重点があると考えています。「躾」は身を美しくと書くように、人としての生き方を覚えるという意味で、教育の中でも一番重要なことなのです。

 いじめについて

「いじめ」を受けたことにより児童・生徒が自らその生命を断つという痛ましい事件が多く発生しています。大変心が痛みます。児童・生徒が自らの命を絶つということは、理由の如何を問わずあってはならないことであり、深刻に受けとめています。

「いじめ」については、どの子どもにも、どの学校においても起こり得るものであることを十分認識するとともに、「いじめ」の兆候をいち早く把握し、迅速に対応することが大切だと考えています。「いじめ」はどこにでもあります。隠してはいけません。子どもの気持ちになる必要があるのです。

この論議をするのに非常に大切なことは、命をかけがえのないものとして尊重する教育の推進が極めて重要であるということです。

--命の尊さについて

子どもたちは、戦って死んでもすぐに生き返るようなゲームを夢中でやっています。「いじめ」が多発するようになったのは、子どもに対して自然や命に対する教育を軽視したわけではないのでしょうが、社会全体が功利主義に走り経済を優先するあまり、子どもの心の教育をなおざりにしてしまった影響もあるように感じています。

また、今後「いじめ」の問題については、命の尊さ、二度と命は返らない(失った命は戻ってこない!)ことを教えていかなければなりません。心の傷は消せないのだから、人をいじめてはいけないのだと。

私たちの命は自分のものではありません。人間は自然のバランスのなかで生かされ、宇宙の摂理から与えられている存在で、自分一人の命ではない。自分が亡くなったら、あなたの子孫は消えてしまうのだということをしっかり教えるのも、教育の役目の一つだと思います。

--いじめの件数の報告について

「いじめ」の件数については正直に公表するということが大事だと思います。実際「いじめ」というのは1人の子どもが何件もやっている可能性があります。私の経験では、1件で終わっているということはほとんどありません。ですから、学校で「いじめ」をどのようにとらえたかということ、教育委員会にどのように報告されたかということ、私はそれに尽きると思っております。私の経験では学級運営がうまくいっているクラスでも大なり、小なり存在している場合が多いということです。「いじめ」は、本当に深刻な問題で、正確に把握し、信頼に値する対応をしながら、その根絶に向かって努力していかなければならないものです。

--いじめ問題と最近の報道について

外国では、「いじめ」による自殺の報道は、後追い自殺が増えるので自制されています。日本は無制限に報道しています。この点にも大きな違いがあると私は考えます。

何か事件が起こると、テレビはどの局でも、一斉に同じ内容の報道をしています。他社に遅れまいとする報道が先行し、事件の本質に迫る報道がされていないことが多々あります。

一般大衆は、マスコミの伝えることをそのまま信じてしまいます。私には、大衆迎合型・世論誘導型の報道番組が多いように感じられます。報道は真実を伝えるものでなければいけません。信頼されるメディアであって欲しいものです。

残念ながら、マスコミが「いじめ」を論じているものに、高度なものはほとんどありません。一方的にいじめられた側に立っている場合もありますし、少ないのですが、被害者とその家族のプライバシーをさらけ出し、一方で加害者のプライバシーを守るという理不尽な報道も見られます。もう一つは、第三者の立場です。私は「いじめの本質」は公平かつ正確にとらえていかないと正しい報道にはならないし、「いじめ」問題の解決にもつながらないと思っています。

例えば、議会での発言一つをとってもこれと同じことが言えます。「いじめ」は生徒の幸せのための議論で、議会は市民の幸せや安全のための議論でなければいけません。本当に市民のためということであれば、人間として自然な答弁がなされるものです。これは絶対に必要不可欠なことです。「いじめ」の問題についても愛情や生命そのものの原点に立ち返らない限り、「いじめの理論」あるいは「いじめ」はなくならないと私は考えています。

「いじめ」がどのように変わってくるのか、個人の心の持ちようによって「いじめ」の受けとめ方は変わってきます。例えば「栄養を与えない」ということについて考えてみます。

「栄養を与えない」、すなわち食物を与えないのを「いじめ」ととらえようとすると、永平寺の僧侶は刑務所の囚人よりカロリーが低いのです。にもかかわらず誰一人文句は言いません。そして立派な人間が育っていくのです。しかし、刑務所で囚人の食事のカロリーを下げた場合、社会問題としてすぐに取り上げられるでしょう。

ですから、一つの事例をもって正しいかどうか判断するということは非常に難しいということです。ある会社の重役が、世の中に無常感を感じて修行に出かけました。ところが、雪の中で6時間立たされ倒れて亡くなったという話を聞いたことがあります。しかし、それで誰一人訴える人はいません。自分からそこに望んで行ったからです。事情を知らない人から見れば同じことでも、個人の受けとめ方により「修行」、「鍛錬」、「訓練」、「罰」、「しごき」となり、これらはすべてレベルが違うのです。

このように論点を整理しないと、同じことが起こってもそれを正しく評価することはできません。私は、そういう点で最近のテレビその他の報道には、ある種の偏りが感じられ、良識のある国民が納得できるものではないと思っています。

--いじめへの対処法

学校は、全ての子どもにとって安全で安心して学ぶことのできる場でなければなりません。様々な理由があるにせよ、不登校者が多数存在すること、児童・生徒の問題行動の発生が見られることは、「いじめ」同様大きな問題であり、私は大変心を痛めています。

それと同時に、「いじめ」や不登校の増加は、「大人社会の歪みの反映である」ことが一番の大きな要素と考えております。子どもは大人を見ながら成長します。子どもを守り育てるためには、何よりもまず保護者や学校、地域住民を含めた大人全員が自らを律し、自らの生き方を見つめ直す必要があります。

まず、大人が「いじめ」などに対して正しく適切な行動をとる。それには、思いやりをもち、子どもたちの心を大人が理解するための努力をすることが非常に重要と私は考えます。そのうえで多くの大人が子どもたちを注意深く見守り、育てていく体制を整える必要があると考えます。まず、「いじめ」や不登校、他の様々の問題行動を生徒指導上の一体の課題としてとらえ、担任等の身近な教師が子どもに対して思いやりがあり信頼される対応をする。そして適切にカウンセラー等の専門家の協力を得ながら校内指導体制の確立を図り、さらに保護者や地域住民にも協力要請していくことが必要です。

--ジェンダーフリー

男女共同参画を唱えるうえで「ジェンダー」という言葉が使われていますが、これは後天的な男女の差のことで、いわゆる性差の問題です。しかし、「ジェンダーフリー」という言葉は日本でしか使われていません。しかも、教育の現場に「ジェンダーフリー」という思想が入っているのは日本だけです。

どうしてそうなったかよく考えなければいけません。男女共同参画は、どんどん推し進めるべきだと思いますが、男女の違いをしっかりとらえて、お互いの特性を認め合い、尊重し合い、補完し合わなければなりません。そして、協力しながらより良い職場や社会を築いていく。そういう意味で、男女共同参画は100%賛成です。

しかし、男らしさ女らしさを否定するという「ジェンダーフリー」は、生物学的にも教育学的にも間違っています。そして、「ジェンダーフリー」の思想を学校教育に入り込ませた教育機関の関係者の考え方は、極めて遺憾であるといわざるを得ません。これは、日本の伝統文化の崩壊につながるものであり、日本が世界に誇るものとして持っていた「ますらおぶり」「たおやめぶり」と相いれないため、私は「ジェンダーフリー」を否定的に考えています。

教育のタイミングと目的

教育の「タイミングとその目的」は、非常に大切で、このことを「刷り込み現象」として研究発表し、ノーベル賞を受賞したのがコンラート・ローレンツ博士です。この「刷り込み現象」とは、卵から孵ったばかりの雛鳥は、最初にみたものを親と思ってしまうという現象のことで、玩具の鳥をみた雛鳥は、玩具を親と思い込み、そのあとをずっと追いかけてしまうという不思議な行動を、科学的に証明したものです。

ローレンツ博士は、自分の姿をガンの雛鳥にみせて実験したため、ガンが巣立ちするまで親鳥として池に入って一緒に泳いだり、空を飛ぶ訓練をしたり、たいへんな苦労をなさったそうです。これは、人間であれば幼児期の教育の大切さに置き換えることができます。教育のタイミングを間違えると、たいへんなことになるということです。

教育のタイミングを逸した最も有名な例は、1920年にインドで発見された、「狼に育てられた子、カマラとアマラ」の例です。生まれてまもなく狼にさらわれ、母狼と一緒に7年間も洞穴の中で過ごし、8歳のときにシング牧師によって人間の世界に引きもどされました。7年間も狼と生活をしてきたため、8歳とはいえ、人間としての行動はまったく見られず、昼は壁に向かってうずくまり、夜は戸外を四足で這い回り、腐肉を好んで食べたということです。

膝立ちして、物を自由につかむまで1年10ヶ月、一人で支えなしで立てるまでに2年8ヶ月、イエス、ノーを表すのに3年2ヶ月を要しました。さらに、恥じらいを示すのに6年2ヶ月、簡単な言葉を理解しながら、自由に話せるまでに9年の歳月を要しました。

カマラは17歳で亡くなったのですが、彼女の獲得した言語と運動能力は2・3歳の幼児程度であったといわれています。これは成長の法則にあるように、生後5ヶ年間の生活環境の影響は、その後の全生涯に影響するものであるということを教えてくれました。教育のタイミングがいかに重要であるかを物語るものです。

カマラとアマラの話は、幼児期の父母との正しいふれあいが、いかに大切であるかを私たちに示してくれているのです。つまり、人間としての教育を受けて、初めて人間になれるということです。

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